能天気予報と音楽
2010.8.18
ドラマの音楽を作曲する時、ある同じ風景の映像に対して、全く別な音楽を作曲し、その風景を見る人の心象風景の変化を表現する事がある。言い替えれば、全く同じ風景、例えば同じ坂道を、違うものに見せる事が出来る。音楽がこうした特性を持っていることは、多くの人が十分に認識し、承知しているだろうし、今まで考えた事がなかった方も、そう言われれば、思い当たる節があると思う。
さて、現在私の研究室では、「ニュース番組と音楽」についての調査を進めている。上に述べたことを、ニュース番組に当てはめてみよう。ある同じニュース映像に対して、全く別の音楽を当ててみると、「同じニュースを、違って見せる事が出来る」。言い換えれば、ニュースを演出することが出来、そしてそれは実際に行われている。「都合の悪いニュースは、軽く見せる」、「誰が、誰に対して?」、このことは、ある程度研究が進んだ段階で、このWeb Pageで公開して行くつもりである。
ここでは、その前段階として「天気予報」について考えてみたい。天気予報は言うまでもなく、明日の天気がどうなるかの予想を、聴取者に伝えるためのものである。予報はあくまでも予報だが、現在は、かなり科学的データと分析に基づく情報が、我々に伝えられている。現在、テレビの天気予報番組には、多くの音楽がバックグラウンドに流れていることにお気づきだろうか。民放各局は、元々天気予報は情報を伝えるというよりは、広告の一部としての要素がある。ヤンマーディーゼル提供の「ヤン坊、マー坊の天気予報」というのは、私が子供の頃、即ち昭和30年代からあると記憶している。現在は、首都圏ではお目にかからないような気がするが、可愛いキャラクターと歌に乗せて、印象に残っている。民間放送は、商業スペースであり、1秒幾らで取引される空間なので、情報よりもスポンサーを印象づける必要があり、その流れは現在更に顕在化しているので、当然、天気予報も何らかの色づけがなされる。スポンサーの望む音楽、もしくは売りたいと思っている音楽を流す。先日フジテレビの天気予報では、大雨洪水警報が出ている時に、サザンオールスターズの曲が流れていた。が、これらの例は、天気予報を「演出」しようとしているのではなく、商業ベースによるものなので、「ニュースを演出する音楽」とは、やや異なる。
私が問題にしたいのは、NHKの天気予報についてである。朝のニュース番組の中には、当然、お出かけ前の聴取者の関心事である「天気予報」が、何回か登場する。この天気予報の後半に、実は、極めて能天気な音楽が流れている(2010年8月現在)。2-3年ほど前から、流れ初めたと記憶している。これだけ問題視する、という割には、この曖昧な認識は何か、と問われても仕方がないところだが、最初、確かに天気予報に音楽が流れてきた時には違和感を覚えた。しかし、たまたま番組担当になった人の気まぐれで、NHKの自浄作用によって、すぐになくなるだろうと思っていたので、あまり深く追求するつもりもなかった。私もNHKでは様々な仕事をしているので、現場の担当者が「何かを始める」ことは大いにあり得る事を知っている。そして、それは、非常に良い結果を生むものもあり、奨励されるし、良くない場合は、これまた自浄作用が働き、淘汰されて行くことも知っている。従って、すぐに無くなるだろうと思っていた。ところが、一向になくなる様子は無いどころか、増えている。最初の天気概況や気圧配置の説明の所には音楽は流れない。その後の「全国の天気」と「週間予報」に流れる。これがいわゆる「演出」を意図しているものでないことは明らかである。というのは、極めて「能天気な音楽」が、穏やかな日も、雨の日も風の日も流れている。フジテレビがサザンの音楽だった「大雨洪水警報」の日も、同じものが流れていた。思い立って、台風の日(2009年10月8日)に録画してみた。ところが、流石に台風の日には、この能天気な音楽は流れていなかった。という事は、担当者に、なにがしかの意識が有るものと思われる。「いくら何でも、この激しい台風の予報に、この音楽は相応しくない」と。
この話を、授業で学生にしたところ、大きな反響があった。先ず、かなりの学生が「天気予報に音楽が流れていることに気づかなかった」という反応。「この授業で言われて初めて気づいた」という。またある学生は「天気概況の所には音楽がないのだから、一応情報は伝えた後、と考えれば、全国の天気の所は息抜きになって良い」。また「そもそも天気予報は民放のCMに当たる休憩時間と捉えれば、BGMが有った方が良い」などなど。NHKの職員である演出家にも聞いてみた。彼は、やはり天気予報にBGMが有ることに気づいていない、もしくは、早朝のニュースは見ていない様だったが、一言「数字じゃないですか?」、つまり視聴率を気にしてのこと、という解釈だ。言い換えれば、視聴者は「色付きの情報」を求めている。それに応えれば視聴率が上がる、という感覚だ。実はここに大いなる「本質」が隠れているが、その事は、今後検証する「ニュース番組と音楽」の中で、音楽がもたらす心理的影響の調査が進んだ段階で論じたいと思う。ここでは、ある意味で簡単な「情報としての天気予報」に絞って話を続けよう。先に書いたように、民放各局は、元々、広告放送としての「天気予報」という位置があり、情報を正確に伝える事は第二義である。これは電波を商業利用とする限り常にそうだ。しかし、NHKは公共放送であり、情報を正確に伝えることが第一義で、「数字」は第二義でなければならないと思う。
天気予報に限って考えても、この能天気な音楽を流すことによって、特に注意報や警報が出るような、重要な警告を「和らげてしまう」効果があり、正に「能天気予報」になってしまう。学生が言うところの「息抜き」になって良い場合と、明らかにマズイ場合がある。台風の時に音楽を止めたのは、このことを分かっているからに他ならないと思う。そもそも、天気予報は演出を必要としていない。「数字」を稼がなければならないのは商業放送の使命であり、公共放送の使命は「正確で、出来るだけ色付きでない情報」を視聴者に伝える事であろう。それにしても、雨の日も風の日も、あの能天気な音楽を流そうという発想が、どこから出てくるのか、感覚を疑わざるを得ない。色付きの「能天気予報」は、視聴者の心理を、図らずも操作してしまっている、という事実に目を向け、耳を傾ける必要がある、という事を、ここに提起したい。情報を表現してはならない、ということを。
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